プラダリボン(フィオッコ)はリボン(イタリア語:フィオッコ)をモチーフにした財布・バッグ・シューズなどのコレクションだ。プラダというと黒のナイロンバッグが有名、というのはプラダをよく知らない人の話。
プラダにはモノグラムのような誰の目にも明らかなアイコンがない。いまだにプラダ=黒のナイロンというイメージが浸透していたり、ハイブランド勢では2番手グループという評価があったりするのは、プラダのそういう性格によるのではないだろうか。
プラダリボン(フィオッコ)も名前よりデザインが主張している。プラダは他のハイブランドと違って実質的にミウッチャ・プラダ個人の、現在進行中のブランドなのだ。
今回はプラダの歴史について紹介しながらプラダリボン(フィオッコ)の特徴や相場を見ていくことにする。
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プラダの歴史
プラダは贅を尽くした皮革製品のブランドとして1913年に創業した。イタリア王室御用達となるが、世界大戦期には立場を失う。戦後は長らく低空飛行を続けたが、創業者の孫であるミウッチャ・プラダがオーナーとなりデザインを始めてからはファッショナブルなブランドとして新生。今日のプラダはほぼミウッチャのブランドといっていい。
ここではプラダの紆余曲折とミウッチャ・プラダの活動の歴史を紹介する。
創業からの順調な滑り出し
マリオとマルティーノの兄弟がミラノに開いたフラテッリ・プラダがプラダの始まりだ(フラテッリ=兄弟)。貴族・富裕層向けにトランクやスーツケースなどを制作し、牛革を初めとしてパイソン、クロコダイル、はては象やセイウチといった希少な革を用いた贅を尽くしたつくりでたちまち評判となり、開業から6年後には当時のイタリア王家の御用達となる。
大戦期と戦後の低迷
順風満帆のフラテッリ・プラダは店舗を増やしていった。だが3店舗目の開店が目前に迫ったところでヨーロッパに暗雲が立ちこめ、一気に戦争の嵐が襲う。開店どころではなくなり、ぜいたく品の販売も振るわなくなっていく。第2次大戦末期にはミラノの本店が爆撃の憂き目に遭う。
戦後も低迷が続く。マリオ、ついでマルティーノが引退したあとは娘たちが継ぎ、中産階級にターゲットを振り替えたりしたが、以前の繁栄は取り戻せなかった。
ミウッチャ・プラダとパトリツィオ・ベルテッリの出会い
ミウッチャは非常に厳格で保守的な両親に育てられ、表面上はそれに従っていたが、内には常に反骨心を秘めていた。
後継者となるべく定められていたミウッチャは、名門ミラノ大学を卒業後にプラダでアクセサリー部門のデザインに携わる。だがこの頃のプラダはまだ旧態依然としたプラダだ。
その頃パトリツィオ・ベルテッリという皮革製造業者がプラダの皮革バッグを模造してミラノの見本市に出品していた。その噂がプラダの耳に入り、ミウッチャは交渉役としてベルテッリのブースに乗り込む。だが逆にベルテッリに言いくるめられ、ベルテッリの会社とプラダが独占ライセンス契約を結ぶことになる。
翌年にはミウッチャがプラダの経営者となる。間もなく2人は恋仲となり、1987年には結婚。私生活だけでなくブランド運営でも2人は切っても切れない関係であり続けている。
ポコノ ナイロンバッグの登場
ベルテッリはミウッチャに「プラダは変わらなければならない」と提言。ミウッチャは持ち前の反骨心と創造力に突き動かされ、まったく新しい何かを追い求めた。そこで出会ったのがポコノという黒い軍用ナイロンだ。
この素材は彼女の祖父マリオが大きな旅行用トランクのカバーとして用いていたものだった。彼女はこれを使って機能的かつ上品なバックパックとトートバッグを制作する。初めは注目されなかったがじわじわと売り上げを伸ばしていった。
ベルテッリとミウッチャはヨーロッパ各国やアメリカの高級店に売り込みをかけ、1980年代初頭にかけてプラダの躍進が始まる。1983年にはミラノに2軒目の直営店を開く。
ベルテッリが再びミウッチャの創造性を焚きつける
プラダの経営が軌道に乗りミウッチャがほっとしたのもつかの間、ベルテッリはさらなる展開へとミウッチャを突き動かそうとする。創業以来プラダの代名詞となってきた豊富ななめし革を用いて靴をつくるよう熱く説いた。
ミウッチャは乗り気ではなかったが結局説得され、いざ開始するや旺盛な創造性を発揮。異なった素材・色の取り合わせや斬新なひねりを加えた造形を開拓し、これまでにない靴を生み出していく。
1985年にはクラシック・ハンドバッグが発売されまたたく間に大ヒットした。1986年には直営3号店をニューヨークにオープンしている。大戦に阻まれたフラテッリ・プラダの夢は新生プラダによって実現された。
プレタポルテ、ミュウミュウ、その後
1989年からはレディースのプレタポルテを展開し、ミウッチャの造形と素材・色の用い方がファッションシーンに多大な影響を与えるようになる。
1992年には姉妹ラインのミュウミュウが誕生。数年後にはメンズラインも開始している。これもベルテッリの提案によるものだ。さらにプラダ・スポーツ、国際ヨットレースへの参戦、ベルテッリ主導によるブランド買収へと突き進む。
プラダの買収劇
グッチ株の売買、ヘルムート・ラングとジル・サンダーの買収を皮切りに始まったブランド買収戦略は、フランスのLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)などに対抗してイタリア中心の巨大ブランドグループを創設しようという目的を持っていた。
買収は順調に進んでいたかに見えたが、裏では負債がかさんでいった。ドットコム・バブルがはじけた影響もあって結局ベルテッリの夢は挫折し、買収したブランドの大半を売却する結果となった。
ミウッチャ・プラダはどんな人?
プラダの活動を通して見えてくるミウッチャ・プラダという人物の性質について簡単に述べておこう。
反骨の人
プラダのブランドロゴはルイ・ヴィトンやグッチといった他のハイブランドに比べて目立たない。これは意図してやっていることで、権威を嫌うミウッチャの精神の表れだ。ナイロンバッグにしても素材感やデザインでアイコンになったのだ。
また、ミュウミュウはメインラインの価格を落としたセカンドという位置づけではなく独立したブランド展開であり、ここにも彼女の反骨性とクリエイティブな性格が表れている。
ファッション業界になじめない芸術家
一方、ベルテッリに尻を叩かれてやっと重い腰をあげるという局面が繰り返されたのがミウッチャによるプラダの歴史だ。しかしいざデザインを始めると旺盛な制作意欲を示して次々と斬新な製品を生み出す。
ミウッチャは自らのショーでもほとんど姿をさらさないことで有名で、多くの人がひしめくファッション業界という舞台にはなじめない性格なのだろう。
デザインや物づくりそのものには深く引かれる芸術家が、生まれによってファッション業の経営を運命づけられ、自分自身と仕事の間に大きな齟齬を抱えている姿が浮かぶ。そこにベルテッリが現れて齟齬を埋めるピース(歯車)となってミウッチャとプラダを連結し、ブランドを順調に回転させ続けたと言えるのではないだろうか。
プラダリボン(フィオッコ)の特徴
財布、バッグ、パンプス、服など、さまざまなアイテムにリボン(フィオッコ)が用いられている。どのアイテムでも非常に大きなリボンが目立つ位置にとりつけられており、上品なかわいらしさが満開である。子供っぽくならないのはリボンが長方形に近い造形であるためだろう。
リボンがリボンとして突出せずに、全体と調和しながら立体的な造形をつくり上げている。プラダらしいデザインと言える。
プラダリボン(フィオッコ)の相場
ここでは取引数の多い長財布とナイロントートバッグを取り上げる。複数の買取業者の買取実績・買取参考価格を比較した結果と、個人間取引の代表としてメルカリの売却価格を取り上げる。
なお、以下の価格情報は2019年5月30日に収集されたものであることをお断りしておく。状態について明記のないものは使用感が少なく、状態のいい場合の価格である。
業者の買取相場
長財布の取引数が飛び抜けて多いようだ。かなりの高額査定を出している業者もある。
- ・長財布(未使用・新品同様)…25,000~48,000円
- ・長財布…10,000~25,000円
- ・ナイロントートバッグ…35,000円程度
メルカリの売却価格
出品者の意向や価格交渉の次第で価格にかなりの開きがある。
- ・長財布(未使用・新品同様)…21,800~62,000円
- ・長財布…7,000~49,200円
- ・ナイロントートバッグ(未使用・新品同様)…50,000~73,000円
- ・ナイロントートバッグ…20,000~49,000円
まとめ
プラダリボン(フィオッコ)は人気のコレクションで、未使用かそれに近い美品であればかなりの高額が期待できる。とくに長財布は取引数が多い。
売れ行きがよいため、買取業者も長財布には積極的な査定を出している。メルカリの個人間取引の価格よりも高くなる場合もあるだろう。ぜひ複数の業者に査定を依頼して比較してみてほしい。
当サイトの一括査定機能を使えば1回で最大20社に査定が依頼できるから大分手間が省けるだろう。目的や優先事項を考え、自分に合った方法で高値を目指していただきたい。