102年の生涯のほとんどを木版画に捧げ、作品制作と指導をおこなっていた平塚運一は、晩年その実績から木版画の神様と呼ばれるようになっていた。その影響は日本を代表する棟方志功、畦地梅太郎、菊地隆知、北岡文雄らの大成につながり、日本の木版画の発展に寄与した功績は大きく、海外からも高い評価を受けている。今回は、この平塚運一の木版画作品の来歴、作風の変遷、買取相場、おすすめ買取業者についてまとめてみた。
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平塚運一の生涯
下関での日清講和条約が結ばれ、日清戦争の勝利に沸く1895年(明治28年)、平塚運一は島根県八束郡津田村(現松江市)の代々宮大工に従事する家に生まれた。島根県立松江商業学校を退学し、松江市役所へ務め始めていた1913年(大正2年)、地元で催された洋画講習会で講師の石井柏亭と出会ったことが、画業への思いを寄せるきっかけとなる。1915年(大正4年)、成人になると上京を決める。
上京後
石井柏亭から紹介を受けて伊上凡骨に師事、半年の期間に伝統的な彫板を身に付け、これが平塚運一のその後の創作版画家としての人生を決定づけた。翌年の1916年(大正5年)、二科展で版画作品が、日本美術院展では油彩作品と水彩画作品がそれぞれ入選し、若き才能を開花させる。それにもかかわらず、平塚運一は東京での活動に拘らず、翌1917年(大正6年)に島根へ帰郷。
結婚して公立小学校の図画教員となった。10年後の1927年(昭和2年)、平塚運一は「版画の技法」を出版する。32際になっていた平塚運一は、この頃8歳年下で24歳の棟方志功などを指導する。
その集大成として翌1928年(昭和3年)には棟方志功、畦地梅太郎らとともに雑誌「版」を創刊した。1930年(昭和5年)には伝統的な文展のアンチテーゼである国画会の会員となる。1925年(昭和14年)からは東京美術学校や日本女子高等学院や公立中学校でも版画を教えるようになった。
太平洋戦争終戦の翌年
太平洋戦争終戦の翌年、1946年(昭和21年)には映画監督である山根幹人などから協力を経て松江美術工芸研究所を設立する。さらに16年後、平塚が67歳になった1962年(昭和37年)、平塚は老年に差し掛かっても衰えることを知らない。渡米して活動拠点をワシントンD.C.へ移る。
アメリカの風物を版画にしつつ各地で個展や講習会を開き、版画の普及に努めている。1977年(昭和52年)、国内外に関係なく取り組んできた精力的な活動が評価され、勲三等瑞宝章が授与される。平塚は82歳に達していた。
12年後の1989年(平成元年)には松江市名誉市民に推挙され、1991年(平成3年)には長野県須坂市に平塚の名が冠された「須坂版画美術館・平塚運一版画美術館」が会館する。1995年(平成7年)、渡米から実に33年経って平塚は帰国。翌々年の1997年(平成8年)、102歳で永眠した。
平塚運一の作風
平塚運一の版画技術は、20歳のときにて伊上凡骨から指導を受け会得した伝統的な彫板が基礎となっている。出自が宮大工の家系ということもあって、日本で伝えられてきた技法は抵抗なく肌に馴染んだのかもしれない。会得した技法は、自画、自刻、自摺と全てを自分自身でおこなう創作版画家のなかでも際立っていた。
伝統的な版画ばかりに囚われることがなく、現代的な作品もあり、洋の東西の別なく幅広い作品が作られている。平塚の初期の作品は多色摺りで温雅な雰囲気を醸している。昭和に入ると黒白モノトーンの豪快な構成へと変わっている。
渡米後円熟さを増していく平塚は、米国内の風物を題材に作品を作り続け、1970年代に入ると裸婦を主題に選ぶようになる。平塚運一の持つ伝統的な技法と、挑戦的な作風や題材の変化は版画界に大きな影響を与えた。また、版画家に限らず石井柏亭、竹久夢二、安井曾太郎、梅原龍三郎など、多くの画家や文化人と交流を持っていた。
平塚運一の代表作品
平塚運一の代表作品を時系列でまとめてみた。版画作品のため同じものが別の美術館などに所蔵されていることもある。複製品であることも考えられるので、手元にある作品を売る際にはきちんとした鑑定士にみてもらうことが重要だ。
買取業者の査定は無料であることも多いので、不安がある場合には一度みてもらうと良いだろう。
- 製作年 作品名 所蔵元
- ・1928年「机上小禽」 千葉市美術館
- ・1937年 「日連聖人」 東京国立近代美術館
- ・1956年 「裸婦松竹梅」 ホノルル美術館
- ・1957年 「Portrait of James A. Michener」 ホノルル美術館
- ・1966年 「議会図書館ワシントンD.C.」 新宿歴史博物館
1997年に102歳で亡くなった平塚運一の創作版画家としての活動は80年にも及んだ。初期のカラー作品からモノトーンの時代へ、日本の風景からアメリカの風景へといった変化があり、裸婦像に傾倒した時代もあった。平塚運一は、勲三等瑞宝章の授賞や松江市名誉市民への推挙、そして自らの名前を冠した「平塚運一版画美術館」が長野県須坂市に開設されるなど、生前からその実績を広く認められた版画家だった。
没後3年経った2000年、約280点の作品が東京ステーション・ギャラリーに集められ「平塚運一展」が開かれている。2018年には千葉市美術館が「木版画の神様 平塚運一展」を開催。約300展の作品が展示されていた。
平塚運一の作品群は、没後も長く愛されるマスターピースとして輝き続けていると言える。
平塚運一作品の相場
版画などの美術品の買取価格は、個別の品質の違いや、常に変化する買取業者の相場観などがあるため公開されていることはあまりない。仮に公開されている価格があったとしても、実際の買取価格はその折の相場観や交渉などで異なってくる。査定してもらうための業者選びでは、作品を送ることもなく、先に写真で査定してもらえるなど、入り口が気軽な業者に査定してもらうのも良いだろう。
相場観はオークションやフリマアプリの過去の取引情報も参考になる。平塚運一の作品では過去に以下のような取引記録が見られた。
- ・1939年 「新日本百景 千鳥城夕月」 …22,000円
- ・1942年 「古塔晴雪(高野)」 …21,500円
- ・1954年 「穴道湖夕雲 出雲」 …36,000円
- ・1955年 「大正時代の三菱銀行」…15,000円
- ・1958年 「石廊岬沖」 …38,500円
平塚運一作品の木版画査定ポイント
平塚運一の多彩な作品群は、活動拠点としていた日本と米国で主に取引されている。版画という性格上、1作品ごとにより早期に擦ったものの方が価値は高いとされる。また擦った数が少ないものほど希少価値がでる。
日本と米国では活動時期が異なるということと、好まれる傾向の違いから価格差が生じている。平塚運一の作品の買取を期待するならば、ポイントになるのが買取業者の比較だ。複数の買取業者に連絡を取り、査定を依頼することで高値での売却が可能になる。
業者を比較することによりおおよその相場が見えてくる。また、同時にオークションサイトやフリマアプリの相場も見ておこう。オークションサイトやフリマアプリを参考にする場合、基本的に仲介業者を介さない一方、鑑定眼の無いものどうしが取引をする場合も少なくないということを考慮にいれておこう。
買取業者のなかにはLINEなどを使って写真を送ることで、作品を送らずにおおよその査定額がわかるサービスを提供しているものがあり便利だ。
版画の買取業者
平塚運一の版画作品を売りに出す際に、どの買取業者に査定を依頼すればより高く、面倒が少なくて済むのかについて、わからないと迷ってしまう人は少なくないだろう。そこで、版画作品の買取に実績のある買取業者を紹介する。
総合美術買取センター
買取価格
スピード
手数料
許可番号
ポリシー
ウイルス
対策
総合美術買取センターの出張費用は遠隔地など難しい場所もあるようだが、基本的に無料。宅配による買取査定における送料も無料で、キャンセルの際に作品を返送してもらう場合もクーリングオフ期間中なら無料で対応してもらえる。同センターは、時代の変遷で高度成長時代に家庭に入った美術品は手放されるフェイズに入ったと認識している。
次の世代に受け継いでもらい新しい文化を開いてほしいという願いがあるとされ、所蔵していた平塚運一の作品も大事に次のオーナーへ引き継がれるだろう。
アート買取協会
買取価格
スピード
手数料
許可番号
ポリシー
ウイルス
対策
アート買取協会は全国7カ所の拠点があり、九州から北海道まで広く営業エリアをカバー。買取方法については出張、宅配、来店の3種類の方法が取られている。どこよりも早く査定し、丁寧に説明し、高く買取っているという実績を誇示。無理に売らせるということも全くないというから安心だ。
遺品整理、管財、相続などの案件にもケースごとに細やかな対応をおこなっている。
買入れ本舗
買取価格
スピード
手数料
許可番号
ポリシー
ウイルス
対策
東京都豊島区と埼玉県戸田市に店舗を構える買入れ本舗は「明治の感動」「大正浪漫」「昭和の思い出」というテーマに即したものの買入れに重点を置いている。
平塚運一の作品の出張買取の実績もあり、買入れ本舗なら適正価格で買ってくれることが期待できる。版画などの美術品に限らず、ほかの家財道具も扱っており、出張買取の際には家財道具の処分の仕方についてのアドバイスも期待できる。
まとめ
平塚運一が20世紀を駆け抜けて日米の地で生み出した作品群は、伝統と同時に新しいものを取り入れた正統な創作版画と言える。平塚運一がこの世を去ってこれまでに一時的に自分のところで保有していた作品は、次の時代のオーナーに気持ちよく受け渡すのもおすすめだ。
買取業者は倉庫で眠っていて忘れられていた作品を活かしてくれるだけでなく、作品のオーナーの突然の死や物要りなどの場合、そして相続など、それぞれの状況に合わせた対応を日々おこなっていて、頼りがいがある。
オークションサイトやフリマアプリでは、中間業者が入ることはないぶん、そのコストが浮くということは自明だが、互いに相場観が分からないため損益や機会損失リスクが生まれる可能性が高い。また、輸送方法も定型化されていないため、せっかく良い状態で引き渡すことが出来たとしても、梱包や輸送で問題が生じて取引がキャンセルとなったり、紛争となってしまう可能性もある。
これまで自分や家族が大事にしてきた作品が、自分の手を離れる最後になって二束三文で処分されたり、破損リスク含みで取引されるのは忍びないことではないだろうか。できれば気持ちよく作品を次のオーナーへ向けて送り出したいものだ。
実績を積んだ買取業者は、その作品の価値を理解し、大事にしてくれる次のオーナー候補のネットワークがあるので、取引から運搬、引き渡しまで、オークションサイトやフリマアプリに比べてかなりより安心して気持ちよく任せることができる。所蔵していた平塚運一の版画作品に愛着があれば、個人間で取引するよりも、買取業者を利用するほうが良いチョイスだと言えるだろう。