Ducati(ドゥカティ)と聞くと、バイクを思い浮かべるという人も多いだろう。最近テレビでもバイク好きな日本の芸能人がドゥカティに乗っていることが取り沙汰されることも多い。しかし、バイクを作り始める前にカメラやラジオ無線などの特許を持った会社であったことを知る人は少ないのではないだろうか。
この記事ではそんなドゥカティのカメラについて歴史や種類、販売・買取価格の相場などをご紹介していく。もし自宅あるいは親御さんが持っているカメラがドゥカティであれば、買取価格を参考に買取を検討するのもいいかもしれない。
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こちらのページには広告パートナーが含まれる場合があります。掲載されている買取価格は公開日のみ有効で、その後の相場変動、各企業の在庫状況、実物の状態などにより変動する可能性があります。
ドゥカティ カメラの歴史
そもそもドゥカティが創業したのは1926年。イタリアのボローニャでのことだ。アドリアーノ・ドゥカティとブルーノ・ドゥカティ、マルチェロ・ドゥカティの兄弟で設立した会社だ。
創業当時の会社名はドゥカティ・ラジオ無線特許科学会社。冒頭に申し上げた通り、バイクメーカーではなく、ラジオ製造を行う会社だったのだ。創業当初は2名ほどの社員のみで細々と研究を行っているだけ。しかし、1926年イタリアではラジオが流行りだした時代だったため、農業から工業に乗り出す会社が増えていた。
そんななか、ドゥカティ・ラジオ無線特許科学会社は最初の製品であるコンデンサー(蓄電器、排気を冷却して水に戻す装置などのこと)を完成させた。コイン程度の小ささを実現したコンデンサーは、爆発的な人気となった。
そんな時に人気の商品となるコンデンサーが作れたわけだから、一気に生産が増えることとなった。さらに計算機・ラジオ・フィルムカメラなどに事業を拡大。熟練した職人の仕事が評価され、ドゥカティはイタリアの代表ともいえるほどの企業となった。
農業から工業へという時流の影響とコンデンサーの開発によって、会社設立から10年ちょっとの年月で一気に従業員を増やし、7000名規模という大企業に押し上げられたのだ。
第二次世界大戦でドゥカティが受けた悲劇
しかし、その頃第二次世界大戦が勃発。大戦を迎えたイタリアは連合国軍からの攻撃が激しく、劣勢となった。当時農業国から工業国へという政策を取っていたムッソリーニ政権は崩壊し、ムッソリーニ自身がボローニャに逃げてきたことで、ボローニャにあるドゥカティの工場も壊滅的な被害を受けてしまう。
戦争が終わってもせっかくの工場が使い物にならなくなっていたため、ドゥカティは従業員以外何も持っていない状況だったという。しかし、これまでイタリアの最先端を走っていたドゥカティの評価は高く、戦後に産業復興公社(IRI)の支援を受けることができた。
IRIのサポートを受けながら、ドゥカティは復活への道を歩み始めた。以前も手がけていたカメラのなかでも小型のカメラ製造からスタートしたのだ。しかしこの事業はあまりうまく進まなかった。技術力があるドゥカティがその能力を活かしきれていなかった頃、国内ではシエタという会社が排気量の多い小型バイクの生産を開始していた。
OEM生産でバイクメーカーとしての活路を見出したドゥカティ
シエタが作っていた排気量48ccのクッチョロという小型バイクは一大ブームを引き起こしたため、需要と供給のバランスが崩れていた。そこで小型カメラ事業がうまくいっていなかったが、技術力が高いことで知られていたドゥカティに白羽の矢が立ったのだ。
ついに1946年ドゥカティはクッチョロのエンジンを生産し始めた。熟練工をたくさん抱えていたドゥカティは生産台数をメキメキと伸ばし、翌年には販売権を獲得。その2年後には累計で6万台ものエンジンを生産した。
その後さらにシエタから、エンジンだけでなくバイク自体の受注生産を行うことで、本格的にバイクメーカーとしての活路が開けたのだ。ここからバイクメーカーとしての力を発揮。その後ドゥカティ・エレットロ・テクニカとドゥカティ・メカニカの2社に分割して運営されるようになった。
ファビオ・タリオーニの功績
ドゥカティ・メカニカを率いたのはファビオ・タリオーニ。彼が今のドゥカティを作ったといっても過言ではないほど、ドゥカティには欠かせない存在だ。ファビオ・タリオーニはレーシングバイク、ドゥカティの代名詞とも言えるデスモドロミック・システム、L型2気筒エンジン、トレリスフレームなどを発明し、レースでも勝てるマシンを作っていった。
まさに最先端の技術を発明し、それが実を結んだ結果といえるだろう。1950年代から1980年代までファビオ・タリオーニが発明したレーシングバイクで数々の賞レースの優勝を勝ち獲ったのだ。その後1985年にドゥカティは買収されることとなる。
ファビオ・タリオーニが引退し、マッシモ・ボルディとジャン・ルイジ・メンゴーリが4バルブ水冷エンジンを開発。ドゥカティをレーシングバイクの道へ引っ張っていく。1990年には初のライダーズ・タイトルを獲得し、弾みをつけたドゥカティはさらにクラウディオ・ドメニカーリとフィリッポ・プレツィオージなどのデザイナーを迎えてデザインに優れたリーダーカンパニーとしてその名を馳せたのだ。
カジバからTPC・インベストインダストリアル、アウディと買収されていきながら、ドゥカティはどんどん成長。バイクのトップメーカーとして君臨する。ドゥカティをバイクのみだと思っていた人も多いだろうが、こんな形でバイクメーカーとして有名になっていったのだ。
ドゥカティ カメラの特徴
話をドゥカティのカメラに戻そう。ドゥカティのカメラは見た目からしてもとても丈夫なつくりをしているのがわかる。ビスが時計用のように小さく、通常のカメラであればいくつかのビスを外せばガタガタするが、ドゥカティは最後のビスを外すまで緩まずきっちりと留まっているのが特徴だ。
とても丈夫なつくりと、精密さの両方を兼ね備えているカメラはそうないだろう。ピントは目で見て合わせるタイプでハーフカメラ、レンズは固定の35mmとなっている。縦長写真になるので、人物写真を撮るといい風合いで撮ることができるのだ。ハーフカメラであるため、取り回しがよく機動性が高いのもうれしいポイントとなる。
ドゥカティ カメラの種類と販売価格
次に、ドゥカティのカメラの種類をご紹介しよう。
ドゥカティ ソーニョ
1940年頃に製造されたカメラで、ソーニョはイタリア語で夢という単語。ハーフサイズのレンジファインダーカメラ。もちろん1940年当時なのでフィルムカメラとなっている。
フルサイズに比べてかなりコンパクトであること、荷物にならないことなどがメリットだ。メタリックさの強い白っぽいシルバーとブラックのレザーで、レトロな風合いがある。時を超えてもかわいさを感じさせるデザインだ。
みなさんもご存じの通りドゥカティはバイクメーカーとして有名であること、第二次世界大戦時期の製造となっていることで、かなり希少なカメラ。この時代のカメラとしては考えにくい性能を誇っている。
レンズ交換可能なのも驚きのポイントだろう。19mm~120mmの望遠レンズまで対応可能なのだ。さすがドゥカティが抱える熟練工の為せる技といえるだろう。シャッタースピード最速1/500秒というからその当時まさに最先端技術であったことをうかがわせてくれる。
ドゥカティ シンプレックス
1950年頃に制作されたカメラ。こちらも非常に頑丈なつくりのカメラでビスがソーニョと同様に小さく最後のビスを外すまでガタガタしない精密な作りになっている。ソーニョと同様ハーフカメラなので旅行のときに荷物になりにくいのはうれしいポイントではないだろうか。
レンズが固定のタイプで縦長に写真が仕上がる。風景よりも人物写真などで特徴が生きるカメラだ。ソーニョよりもブラックレザーの配分が多く、持ちやすいのも特徴。
左前面にシャッターボタンがあるという珍しいつくりがクラシックな印象を与える逸品だ。第二次世界大戦時期のものがまだ問題なく使えるだけでなく、写りがとてもいいというのはまさにドゥカティの技術の賜物といえるだろう。
あまりに希少であるため、ドゥカティ シンプレックスの販売価格は6万円(動作未確認のジャンク品)~12万円弱となっており、その人気がうかがえる。ソーニョの方はレンズ交換もできてレンズが2本ついているものが22万円弱~32万円弱で販売されていた。
ドゥカティのその他部品
無事に動くボディがかなり希少な存在であるドゥカティのカメラは、周辺機器だけでもかなり高価格で取引されている。今ボディを持っていてまだ使いたいと思う、あるいは改造を検討する人が購入し、手入れをしながら楽しんでいくためだろう。
レンズ(ラトール60mm)
ソーニョの交換レンズであるラトール60mmが9万円弱で販売されていた。出品者がレンズのみ保有しているため、正常動作ができるか確認ができないという状態だがかなり高値だ。
小型フィルムローダー
ドゥカティ純正のフィルムローダー。ドゥカティ用のマガジンに移し替えるためのものだ。とても使いやすくシルバーのノブがおしゃれ。ほぼ未使用のため、高価格の5万円弱で取引されている。
純正のマニュアル集
あまりに希少であるためか、マニュアルまでが販売されている。マニュアルだけで3,400円弱~5,600円弱までの価格で取引されているのを見ると、根強いファンがいることがわかるだろう。
ドゥカティ カメラの買取相場と査定情報
歴史がありつつも第二次世界大戦などの影響でなかなか市場に出回らず、とても希少なドゥカティのカメラ。カメラ専門のショッピングサイトや海外とのやりとりができるサイトを見てみても、現在市場に出回っているものが見つけられなかった。オークションなどでも既に販売してしまっているものしか見当たらず、その人気の高さがうかがえる。
現在販売されている金額を考えると、動作確認のできないジャンク品であってもドゥカティ シンプレックスであれば~3万円程度、動作確認が取れているものであれば~6万円程度は期待できるのではないだろうか。ドゥカティ ソーニョであれば、ジャンク品でも~10万円以内、動作確認済であれば~25万円などの超高額買取も可能になるだろう。
ドゥカティのように希少価値が高いものをしっかり高値で買取してもらえるように、情報を随時確認してみてほしい。特に情報が更新されてすぐ販売先が見つかってしまうため、よく市場動向を確認して対応することが大切だ。
カメラを販売する前に気をつけたいお手入れ方法
手元のカメラを高価格で販売する前には、しっかりお手入れしておくことが重要だ。もちろん、カメラ・レンズは定期的にお手入れをすることで長く愛用できる。それだけでなく、きちんとお手入れをすることで買取価格を上げることもできるのだ。精密機械だから壊してしまいそう…という心配をする前に、ぜひ正しいお手入れ方法を知っておこう。
用意するもの
- ・タオル
- ・綿棒
- ・つまようじ
- ・クリーニングペーパー(メガネ拭きなどでOK)
- ・レンズペン
- ・ブロアー(ホコリを飛ばすもの)
実際のお手入れ方法
まずはブロアーから。しっかり空気を含んでホコリを飛ばせる強度を持ったものにするのが大切だ。ホコリがついたままクリーニングペーパーで拭いてしまうとレンズに思わぬキズをつけることにもなってしまう。写真の仕上がりにも大きな影響をもたらすから、まずはホコリをしっかり取り除くことにしよう。
次にクリーニングペーパーだが、最初から濡れているタイプのものがおすすめだ。クリーニング液を持ち歩くとこぼれるなどのトラブルが起きる可能性がある。また、もともと濡れているものは1つずつ包装されているため、そのような心配がないのもおすすめする1つの理由だ。レンズのみならず手垢で意外に汚れてしまうボディを清掃するときにも使える。
クリーニングペーパーの液がレンズの端部分に溜まってしまうことなどが、お手入れに慣れていない場合よく発生する。そうならないようにレンズペンで拭き上げておくとカビなどを防いで清潔に保つことができるだろう。その他清掃する時に使うのが綿棒・つまようじ・タオルだ。綿棒とつまようじを持っておけば自分の指が届かないところにもアプローチしてキレイに仕上げることができるから、用意しておくといいだろう。
あとはボディ部分やレンズ面ではなく持つ部分を拭くのに必要なのがタオルだ。乾いているとキレイに拭き取れないので湿らせているくらいがいいだろう。まずは外側からタオルで拭いた後、細かい部分を綿棒やつまようじで清掃し、出たホコリなどをブロアーで飛ばしてからクリーニングペーパー、レンズペンという順番でお手入れをすると、二度手間がなくスムーズにお手入れをすることができる。
特に外での撮影が多い場合はカメラの溝や刻み部分にホコリが溜まっていることもあるのでよく見て掃除をするようにしてみてほしい。これをするとしないのとでは買取価格にかなり差が出る可能性があるだろう。
まとめ
かなり希少価値の高いドゥカティのカメラの歴史や種類、販売価格や買取相場までお伝えした。買取相場は不明確な部分が多かったが、販売価格がある程度の目安となってくれるだろう。あとはアナログカメラ専門店などに持っていって査定をしてもらうなども含めながら買取比較をすると、あまりドゥカティカメラの価値を下げずに買い取ってもらえるはずだ。ぜひ今使っていないドゥカティカメラがあるようなら、まずはお手入れから始めてみてほしい。